ネパール旅行記 -概要-
なんでネパールに行ったのか
タイの旧正月を利用して、ネパールへ旅行に行ってきた。
なんでネパールだったかというと、
- 地震から1年でどれだけ復旧したのかを確認したい
- 観光というお金の落とし方で復旧支援したい
- 日本に帰ったら気軽に行ける場所ではない
- ヒマラヤ山脈を見たい
という理由から。
タイ仏教では「タンブン」という徳を積む行為がごく普通に行われており、明らかに収入が低い人でも物乞いの人にお金を恵む光景がよく見られる。
1年前、ネパール大地震が発生した直後から、タイでは募金が始まっていた。
タンブンと一緒で、チャリティーTシャツを買ったり募金したり、とても普通に事が進んでいてタイ人の優しさに感動したのを覚えている。
そんなタイ人の支援がどう実っているのか、確認したかった。
ネパールという国自体には何も期待しておらず、支援のために観光業を通してお金を落とすことと、ヒマラヤを見る事を目的としていた。
だが、スペインに続く「もう一度行きたい国」にまでのし上がった。
バックパッカーの3大"沈没"地として知られている所以が理解できた。
ネパールは超好印象
印象を箇条書すると、
- ネパール人が人懐っこいが、しつこくない
- 埃っぽい、空気は悪い
- メシが安くてうまい。色々な国籍料理が揃っている
- コーヒーも安くてうまい
- 信仰心が厚い
- ヒマラヤ超デカイ
- 犬かわいい
- 英語通じる(街中では)
といった感じ。
とにかく、ダラダラと過ごしやすい。
観光VISAの取得
日本パスポート所有者は事前取得する必要なし。
到着ロビーにて購入可能。
15日以内は、20ドルだったと思う。
証明写真が必要という記事を読んでいたので事前に用意していたが、写真がない場合でもVISAカウンターの横にある機械でパスポートをスキャンすれば問題ない、っぽいことを並んでいた中国人のオバちゃんから聞いた。
まぁ、スムーズなVISA申請のためにも証明写真は持っていくことをオススメする。
通貨・両替
ネパールルピー(NRP)が使われている。
1NRP ≒ 1円くらい。非常に換算しやすい。
今回訪れたカトマンズ・ポカラには街中に両替商があり、日本円の両替も可能。
いきなり空港で多めに両替する必要は無い。
ちなみに我々はタイ在住なのだが、一応USドルにしたものを持ち込んで使った。
通信事情 モバイル
プリペイドSIM購入方法
プリペイドSIMは購入可能。
空港出口にあるキャリアの窓口で購入できる。我々はNcellという会社を利用した。
これがNcellのロゴ。
街でもよく見かける紫の看板。
NcellのプリペイドSIM購入に必要な物は
- 申込書(その場で記入)
- パスポート
- 証明写真1枚
と、3がちょっとトリッキーだが、VISAで使うので余分に持って行っておけば問題ない。
申込方法と料金
窓口の兄さんは忙しいのか、あまり親切ではなかった。
料金のプランなどは一切聞いてこなかったので、「1GBの通信オンリープランをお願い」と伝えた。
すると、「1,000NRP(約1,000円)だよ」とのこと。
あとは携帯を渡してお兄さんに任せる。
当方iPhone 6使用であるが、プリペイドSIMのサイズは一番大きいやつ。
他の客の問合せを手際よく捌きながらSIMカッターとヤスリを使ってサイズを変え、SMSを使ってプランを申請したようだ。
ちゃんと通信できるかどうかを確認した後、電話番号のメモと電話を渡される。
これでGoogle Mapが使えるので旅が捗る。
通信速度
カトマンズ市内、ポカラ市内での利用は、大体下り3Mbps/上り1Mbps程度。
普通に使う分には全く問題なし。
また、NcellはTwitterと契約しているらしく、Twitter公式アプリを使っていると「NcellはTwitterフリーだよ」的な表示が出ていた。
通信事情 Wifi
ホテルやレストラン、カフェにはWifiが完備されているところが多い。
店員に「Wifiある?」と聞いてみれば、ほぼ教えてくれる。
ただし、激遅でinstagramやFacebookの更新もモタモタする。
インターネットでグルメ情報を調べたりするのもかなり時間がかかるため、できればプリペイドSIMを購入することをオススメしたい。
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次回記事からネパールの旅行記を書かせていただきます。
遅刻魔とBOSS呼称の始まり
運転手が「やらかす」定番として、遅刻。
経験上、遅刻をしないひとはしないけど、する人はかなりの確率で常習性がある。
遅刻は、本当にタチが悪い。しかも、タイミングを図ったかのように、遅れられない案件の時にこそ力を発揮してくる。
最初にくらった遅刻
最初に体験した遅刻は、赴任したばかりの休日のゴルフの日だった。
朝、駐車場の車の前にいるはずの運転手が、いない。
今でこそ「あー遅刻だなこりゃこねーわ」と思えてすぐに切り替えられるのだが、当時の私はまだ「信じる」事をやめていなかった。
待ち合わせ時間を15分、20分過ぎたところで初めて電話するが、出ない。
やばい、間に合わないと思い、同じアパートに住んでいた先輩の車に乗せてもらい事なきを得た。
運転手からの電話
ゴルフ場に向かう途中、運転手から電話が。
運転手「あsぇkら:;lk:あ;lskd:あ;lskdf:;あ」
↑赴任した当時なのでこう聞こえた。全くタイ語がわからない。
どうにもこうにも話が進まないことに業を煮やし、運転手が電話を切った。
数分後、日本語のできるタイ人スタッフから電話が。
スタッフ「彼は寝坊しました。今から行くと言っています」
私「もうゴルフ場に向かってるから今日は来なくていいと伝えて」
スタッフ「わかりました」
運転手からSMSが届いた
電話を切った数分後、SMSが届いた。運転手からだった。
先の記事の通り、運転手は英語もできない。SMSもタイ語で送られてきた。
そこで、Google翻訳を使って解読したところ、こんな訳が。
BOSSて・・・
これが、BOSSと呼ばれる始まりであった。
今まで運転手が何度となく変わってきたが、
「私の事をBOSSと呼ぶ運転手には問題児が多い」という統計を得た。
そのため、運転手が変わるごとにBOSSと呼ばれないかどうかが運試しとなっている。
ちなみに、このSMSを送ってきた運転手、翌日も無断欠勤。
そして、そのまま会うことは無かった。
変わりゆく運転手とのコミュニケーション奮闘記の始まりであった。
ちなみに今は少しタイ語が読めるのだけど、改めて読んだら
「申し訳ありません」じゃなくて「ごめん 」しか書いてねーわ。笑
歴代運転手の思い出 -序章-
運転手がつく暮らし
私は現在、タイに駐在するサラリーマンである。
タイを楽しみまくっているのは間違いないが、
一応「会社の命令で赴任した」というのが名目。
駐在員の恩恵として、私は運転手付きの営業車が支給されている。
理由は、
- 交通マナーが悪いので危険。
- 事故が起こった時に言葉も話せず不利になる。
- 看板が読めないから困る、など
これだけ言うと、非常に恵まれた環境にあるように見えるのだが、いや、実際に恵まれてはいるのだが、最大の問題が運転手自体にあったのは赴任するまで想像すらしていなかった。
とにかく今まで私に就いてくれた歴代運転手は個性的なキャラが多く、粒ぞろいなのだ。
なぜかというと、(以下、お気を悪くされる方がいたら申し訳有りません)、運転手という職業は学歴がなくてもできる仕事らしく、あまり常識を知らない人が多い。
常識を逸したファンタスティックな行動が頻繁に見られるのである。
今でこそ抗体が付き、自分で伏線を張ったり何か起こった際も冷静に対処したりできるようになったが、タイに赴任した当時の一番の困り事とストレスの原因は、運転手だった。理由は大きく分けて2つ。
1. 言葉が通じない
あたりまえのことであるが、言葉が通じない。運転手は、カタコトの英語すら話せないひとが多い。
容赦無い流暢なタイ語で話しかけてくる。
タイ赴任して直後はタイ語など話せるわけもなく、運転手に何も伝える事ができない。 たとえば
- ◯◯に行って
- ここで待ってて
- ◯◯に来て
などなど、言葉がわからずそういう指示すら出来ない。
なので、買い物に行くときも当初は駐車場まで一緒に乗って行き、「ここで待っててね」とジェスチャーで伝えて離れる。
所要時間を英語で言っても伝わらず、お互いに伝わらないことを笑って済ましてしまう。今思えば、大方の所要時間も伝えずに出て行くご主人に運転手も不安不満があっただろう。
フラつく時間はあるのか?
メシを食う時間はあるのか?
昼寝をする時間があるのか?
目安を作ってあげる事すらできず不満を募らせてしまったのは、ご主人である私の責任である。
2.地図が読めない
そして、運転手なのに地図が読めない。
運転手の仕事は運転することであって、それに付随する付加価値(道を覚える、渋滞情報を見て予測する、など)をつけようとする意識は無い人が多い。
それは運転手に伝えても理解しないし、それ相当の給与しかもらってないのも事実。
タイに住んでわかった事は、日本人は地図がよく読める。
というよりは、読めるようにならざるを得なかったのだと思う。
それだけ日本の道は複雑で、目的地に着くためには地図を読まないといけなかったのだと思う。
タイに限ったことでは無いと思うけど、タイの道は大通りの名前と小道の番号構成されている。
たとえば、「バンコク通りの小道番号1番」といった感じ。
つまり、名前の付いた大通りを乗り継いで、最後は指定されたソイの番号に入れば大方の位置に到着できる。
簡単な解説 おわかりいただけるだろうか |
日本の住所は番地で決まっていて小道には名前がないのだが、タイの住所は大通りの名前と小道の番号が重要視される。
そのため、通りの名前だけで覚えていることが多い。
地図のように全体の位置関係を把握できておらず、地図を見せてもちんぷんかんぷんで「この大通りの名前は何?」という質問がよく寄せられる。
そんな感じなので、方向感覚もなく地図をクルクル回している風景がよく見られる。
ある日気づいた
当時は上記のような運転手の言動1つ1つがストレスでしかなかったが、よくよく考えれば、そもそも外国人は私。
日本の物差しを使っている方がおかしいのである。
そう考えられるようになってからは、できるだけ受け入れるようにし、自分が変わることに努力した。
まずはタイ語の勉強。
そして、タイ人のライフスタイルの勉強。
その国のメンタリティを学ぶことの重要性は、かの島耕作も頻繁に謳っている。
思い出は美化されるとはよく言ったもので、今となっては様々なトラブルも楽しい思い出となっている。
もはや、ネタにしないとやりきれないエピソードばかりです。
チマチマ更新する予定です。
是非お付き合い下さいませ。
#私を構成する9枚
なんか面白そうなハッシュタグが流行っていたので、流行りに乗ったついでに思い出に浸ってみました。
わたくし、こういう自己満足を記録に残すの大好き。
構成している、というよりは、何かしらのキッカケになった着火剤という視点で選んでみました。
では、長いですが、もしよければ最後までお付き合い願います。
さんだる/たま
当時小5。
恐らく、自分の偏った音楽遍歴が始まった瞬間。
当時小学5年生で、中の良い友人がこのアルバムを持っていたことがキッカケ。
それまでとんねるずの歌とゲームのサントラしか聞いていなかったのだが、友人と一緒に聞きながら歌っていたところハマってしまい、毎日聞いていた記憶。
きっかけはそんなもんだけど、いま聴いても一切古いとは思わない。
たまはその後のリリース作品「ひるね」「きゃべつ」も名盤で、素晴らしいアコースティック集団だと思います。
バブル時代ならではのハイクオリティなマスタリングなのか、音質もかなりクリアー。
THE DAILY GRIND / NO USE FOR A NAME
当時中2。
メロコアにドハマリしたキッカケの1枚。
姉の部屋に忍び込んで、かっこよさそうなジャケットをくすねて聞いていたCDの1枚だった。
UNTIL ITS GONEのイントロで、X-JAPANみたいな曲が来ると思ってたら、TOSHIとは似ても似つかないTONYのヴォーカルで始まってずっこけた。
当アルバムのTONYの声は、晩秋のNUFANと違って音程が不安定だったし声が太かった。
でも、1曲1曲が異様に短くスピーディー、かつ曲間のギャップなし(当時のCDは曲間に2秒位のギャップが入っているのが普通だった)でノンストップで進む構成が、中2の私には衝撃的でのめり込んでいった。
レコーディングの知識などみじんもない当時は、「このアルバム、全曲通しで録音したんかな…」とか考えていた。
その当時、こういった洋楽は輸入盤しか存在しておらず、原宿のHMVまで買いに行っていた。
それが自分の初めての原宿でもあった。
カツアゲされると思って靴下に紙幣入れてました。
一番聴きこんだメロコアのバンドはBAD RELIGIONだが、キッカケを作ってくれたNO USE FOR A NAMEということで、彼らに敬意を。
ANGRY FIST / HI-STANDARD(輸入盤)
当時高2。
中2以降、スキャットマンやユーロビートに寄り道しつつ、洋楽のメロコアを漁っていた。
要は、こじらせて日本の曲を意識的に遠ざけていた。
で、たまに雑誌で見かけるイチオシ、HI-STANDARDというバンド。
試しに買ってみて洋楽かと思っていてジャケットを開いたら、3人のアジア人の写真
あれ?これって日本人じゃ…
名前を見て"Akihiro Nanba"日本人と確定。
うわー、このCD失敗したか…と思ってコンポに入れて、電撃が走った。
最初の曲は、Fighting Fists, Angry Soul(買ったのが輸入盤だったので)。
こんなかっこいいメロコアを日本人がやっている!
うわ、この人声かっこいい!
日本人やるじゃん!という上から目線。
それ以降、日本のアーティストにも目を向けるようになり、特にインディーズバンドにハマっていった。
ハイスタを始め、BRAHMAN、SUPER STUPID、THE MAD CAPSULE MARKETS、BACK DROP BOMB、COCOBAT、REACH、WRENCH、SOBUT、KEMURI、などなど。
クラスメート経由でインディーズマガジンの存在を知り、付録のCDを楽しみにしていた。
伝説の番組 HANG OUTは毎週チェック。
番組の懸賞にハガキを送り、見事「歯ぐきダッシュ」(現B-DASH)のデモテープに当選したこともある。
最初で最後の懸賞当選だと思う。
その後に発売されたハイスタの「MAKING THE ROAD」は間違いなく殿堂入り。
当時のインディーズバンドの音源は、感性豊かな時に知ったからか、今聴いてもカッコイイ。
AIRJAM2000での難波氏の「よっしゃ来い」を生で聞けて、本当によかったと今でも思う。
野音 Live on '94.6.18/19 / THE BLUE HEARTS
当時高3。
遅すぎるブルハの目覚め。
NUFAN以降、ずっとメロコアばっか漁っていた当時の私に早く気付けと教えてやりたい。
クラスメートにブルーハーツ好きがいて、彼には
「そんなメジャー聞いてないでハイスタ聞けよー」とか勧めていた。
友人に「まぁ、このアルバム聞いてみ」と言われて渡されたのがこのライブアルバム。
もう、聞いて最初からぶっ飛んだ。
こんなカッコいいバンドが日本のメジャーにいたんだ!と。
それからというもの、手のひらを返して彼らのビデオとCDを漁りに漁ってどっぷり浸った。
「ブルーハーツが聞こえない」というビデオは何度となく見た。
野音のライブアルバムは楽曲的にベスト盤とも言える構成で、最後につれて畳み掛けるセットリストが最高。
メドレーが終わった後の情熱の薔薇で鳥肌。
最後の曲TRAIN TRAINでヒロトが感極まり、「栄光…」でトチるところがもうたまらない。
解散する前に知りたかったバンドNo.1。
Live Everything Everything / Underworld
当時20歳。
クラブミュージックにハマったキッカケは、このCD。
今までメロコア・パンクばっかり聞いていた私にとって、この長く単調なビートの継続は最初意味がわからなかったが、DJの師匠が「このライブ、繋げてないのにかっけーよ」と騒いでいたから聞いた、というのが本音。
TRAIN SPOTTINGのラストに使われていたBORN SLIPPY NUXXがあったのであまり抵抗なく入れたのと、現場の楽しそうな空気が感じられるのが良かったのかもしれない
このアルバムを聞いて、Underworldへの興味が湧きエレクトラグライド2000への参戦を決意。
結果、自分と同行者の中で「エレグラ伝説」と唄うほどの思い出となる。
エレグラ伝説 詳細
エレグラ当日は、REVOLBER FLAVOURというインディーズの祭典とダブルヘッダーであった。
メンツは、BACK DROP BOMB、MASTER LOW IQ 1、SHAKKAZOMBIE、BRAHMAN。
私ともう1人の友人2人組はZEPP TOKYOで上記バンドのライブ観戦を終えた後、アドレナリンMAXの状態で幕張メッセへ向かった。
ちなみに、チケットはダフ屋で値切って買う予定だった。
幕張メッセの会場が埋まるほどのフェスなどないと、高をくくっていたのだ。
ところが予想は大きく外れ、海浜幕張駅に着いた私たちは愕然とした。
ダフ屋も困るほど海浜幕張駅前のチケットは枯渇していたのだった。
そこで友人と相談し、初めて改札口で「チケット譲って下さい」の人になる事を決意。
しかし全くもって保有者が捕まらず、終電もさしかかり、11月末の寒さも追い打ちをかけてくる。
すると、挫折しようとしていた我々の元に神が舞い降りた。
「チケット探してるの?1枚あるよ。あげる!」
…え、あげる? くれるの?
死にかけた私達にとって、それは神そのものだった。
他の人達はチケット保有者を見つけても値段をふっかけられている中、私たちのところに来て、チケットをタダで1枚渡してくれたのだ。
なんかちょっと奇抜な服装で、おそらく業界関係者だったのだと思う。だが、興奮のあまり身なりを覚えていない。
神に深々とお辞儀をし、見送る。
Underworldのライブ開始時間が迫っている。
残り1枚のチケットは、値段を気にしている余裕はない。時間優先。
しかも、1枚タダで手にしているのだから2倍までは出せる。
残り1枚はなんとか定価の倍でなんとかチケットを譲ってもらい、結果定価での入場に成功。
入場した時は、Orbitalがちょうど終わった頃だった。
直ぐにUnderworldが開始。間に合った。
始まりはCowgirlだった記憶。
あのピースな笑顔の空間、一体感の初体験は忘れられない。
オーディエンスは個人個人が好き好きに、笑顔で、時には手を挙げたりして、踊りまくっている。
いままではライブといえばモッシュ・殴り合いが普通だった価値観が、一気にぶっ壊れた。
なんか、大人だな、って思ったのと、単調なリズムで踊る楽しさをそこで学んだ。
当エレグラのライブではREZをやらなかったため、周りはライブセットを酷評していたが、クラブカルチャー自体が初心者の私は全てが衝撃のあまりにセットリストの記憶はあまりない。
その後のルークスレイターのDJがやたらバキバキしててかっこよかったことは、なんとなく覚えている。
この日をキッカケに、聴く音楽はクラブミュージックに大きく傾倒した。
そのキッカケを作ってくれたのが、このアルバムである。
今やUnderworldがフェスにラインアップされていても裏でやっているアーティストを優先してしまうくらいの存在になってしまったが、素晴らしいキッカケを作ってくれた彼らに感謝。
Anasthasia 2001 / YOJI BIOEHANIKA
当時20歳。
YOJI氏は、見せるDJもいるんだな、と思わせてくれた存在。
クラブで遊ぶ楽しさも教えてもらった。
エレグラ以降クラブミュージックを掘り続け、CISCO HOUSE Pt.2にてこのレコードに出会い、YOJIの存在を知る。
テクノやトランスとはまた違った暴力的なビートと派手な展開。ジュリアナの進化版というのが第一印象。
もともとジュリアナには幼少期なりに興味を持っていたので、まさにAnasthasiaをリメイクしたこの曲は"ど"ストライクだった。
このジャンルがNU-NRG(ニューエナジー)だと知ってからはニューエナの情報収集に注力するようになり、彼のMixの楽曲から掘り下げたレーベルやHELLHOUSEの音源は、必ずチェックしていた。主にCISCO HOUSE Pt.2とGRHOOVYに必ず立ち寄り、ハードハウスやNU-NRGのレコードを買いまくった。
CISCO HOUSE Pt.2に置いてあった「VIVA」のフライヤーで彼のレジデンスパーティーが有ることを知り、初めて新宿リキッドルームに足を踏み入れた。
隔月で行われていたVIVAには、しばらくの間皆勤した。
新宿リキッドルームのちょっと怪しい空間と、胸をどつかれているような低音を鳴らすサウンドシステムが大好きだった。ああいうクラブ、他にないよなぁ。
VIVAの客層は少し奇抜で、FETUSやUFOを着こなしルミカライトを持ち、チュッパチャップスを舐めている。中にはガンギマってる人もいて、被害を受けない程度に怖い。
「火ィかしてぇ〜」
と寄ってきたお姉さんが隣にくっついて座った時に、やたら肌が冷たくてこちらの肝も冷えた事を鮮明に覚えている。
「どこから来たの〜」とか
「誰と来たの〜」とか
どこか妖艶な声の質問に必要最低限の単語だけで回答することが精一杯だったのだが、あれは逆ナンだったのかも知れない。
と、思い出を美化。
VIVAの内容に戻ろう。
レジデンスDJ、SHOKO-Fのプレイは、黙々と暴力的なスピードテクノやテックハウスをかけ続けるスタイル。
彼がプレイしている楽曲は好きだったのだけど、レコ屋で音源が本当に見当たらなかったのが悔やまれる。
その後、NISHやLAB-4のゲストを経て登場するYOJIの神々しさ。
寸分狂わぬ曲繋ぎ、他人の曲を自分の曲かと思わせるオーバーアクション。
その当時のヒーローだった。こんなかっこいいDJがいるのかと。
VIVAの選曲と空気感が好きすぎて、このためにMDLP対応録再ウォークマンと小型マイクを買い、オープンからクローズまでエビアン1本でリキッドルームに入り浸り、毎回録音していた。
恐らく、あのリキッドルームの中で客単価が1番低かった人間だったと思う。
安物のマイクだから音質は聞けたものではなかったが、埼玉の奥地に帰るまでの道中で、さっきまでのクレイジーなムードを思い出すには十分だった。
フロアで気に入った曲のメロディをうろ覚えにしない事にも一役買ってくれ、レコードを買い逃す事も減った。
VIVAは大好きなパーティー空間でもあり、DJの勉強の場でもあった。
自分のDJに大きい身振り手振りがついたのは、間違いなく彼の影響である。
クラブとDJのことしか考えてなかったあの当時、楽しかったなぁ。
Mix-up vol.2 / Jeff Mills
当時20歳。
名作Mix-upシリーズの中でも、これは思い出の1枚。
このCDで、ミニマルテクノはMixで活きる音楽であることを知った。
もちろん、単調なビートが永遠と続く1曲をずっと聞くことに快感を覚えている人もいると思うが、自分にとってこのCDを聴いてからは、テクノ(特にミニマル)の曲はMixに使われるパーツ、という概念になった。
もともとUnderworldから入り、トランス、ハードハウス、ニューエナと聴いてきた自分にとって、テクノは少し地味で飽きてしまうジャンルとして分けられていた。
要は、上記ジャンルは1曲の中に起承転結があるが、テクノにはそれがなく、楽しみ方を見いだせずにいた。
(なら聞かなきゃいいじゃん、って話なんですが、要は色々きいてる人間がかっこいいと思っていたのでしょう)
それでもよく見るこのJeff Millsという名前と賞賛の数々。
ディスクユニオンで中古が安かったので、買ってみた的なノリだったと思う。
で、聴いてすぐにテクノの固定概念をひっくり返された。
彼のMixは当時の自分にとって斬新なもので、とにかくクイックミックス。BPMもやたら速い。
ターンテーブル3台を使って曲同士が重なっているうちに次の曲へ展開していく。
どこかのBlogでこのCDをレビューしていたフレーズを引用すると、
「矢継ぎ早にバキバキのハードミニマルを引きちぎっては叩きつける」
まさにこんな感じ。
荒々しく続いていくテクノの洪水に巻き込まれながら埋まっていく感覚。
このCDで、1つの数十分のMixが1つの曲になっている感覚を初めて掴んだ。
今ままでMixを「点のあつまり」でしか聞いていなかったのだが、「線」で聞けるようになった。
簡単に言うと、地味な曲をうまくつなげていくと、全体を通して聞いた時にすごく面白くなる、ということを知った。
Magneze / Surgeon
Changes of Life / Jeff Mills
上記の曲が始まる瞬間が当Mixのハイライトだと思っています。
この後、石野卓球氏のDJF400に出会い、もっと地味な方向へ向かっていくのであった。
Code4109 / DJ KRUSH
当時21歳。
新たなクラブミュージックの価値観。
今まではアッパーな音楽こそクラブミュージック、DJはビートつなげてなんぼと思っていたが、このMix CDで見解が広がった。
ダウンなビートとムードの繋ぎ。今思うと、なんとなくJAZZっぽい気がする。噛めば噛むほど味が出る。
このCDを聴くキッカケを作ってくれたのも、私のDJの師匠。
猛烈に勧められて試聴しないで買ったものの、買った当初は「なんだこりゃ」だったのだが、今となっては殿堂入り。
THA BLUE HERBやPREFUSE 73、RYOW ARAIなどアブストラクトなビートに興味を持つ入口となったのがこのMix CD。
今聞いたってカッコイイ。
むしろ、今聴いたほうがゾクゾクくる。
KRUSHさんサイコーっす。
ristorante / Nujabes (Mix Tape)
当時21歳。
恐らく、このテープは生涯「心のベストテン第一位」。
自分の今のDJスタイルの礎となっている1本。
縦横無尽なオールジャンルの45分×2本。
多岐にわたるジャンルを文句無しにオシャレにまとめている。かっこ良すぎる。
このミックステープから、色々なアーティストを知ることもできた最高の90分。
A面
Jazzyなビートから入ってアブストラクトを挟み、Bossaを通じてEpleで〆。
UNKLEのRemixからの展開がカッコよすぎる。
B面
BPM110くらいのブレイクビーツをつなげていって、途中でJamiroquaiのCanned Heart Remixを挟んで少し遊んだ後にハウス、優しいSambaでフェードアウト。
後味スッキリ。まさに、ristorante!
HYDE OUTがオシャレすぎて近づき難かったのだが、このテープはオシャレかつ渋く、しかも遊びが要所に組み込まれている。こんなMixをいつかは残したい。
私がMixを作るときは「あなたのロングセラーになりたい」がテーマです。
以上、自己満足でした。
自分的ロングセラーのCDを集めたらまた全く違う9枚になるんだろうけど、思い入れが強い方が書いてて楽しいのでこの構成にさせて頂きました。
ご清聴ありがとうございました。
ミャンマー旅行記 -通貨と通信事情-
タイに住んでなかったら間違いなく言ってなかったであろうミャンマー。
友人がバガンの遺跡群の写真をinstagramに上げていたのを見て「こりゃ行かないと」と想ったのがキッカケ。
結論から言うと、バガンの遺跡は本当に素晴らしかった。
ヤンゴンのシュエダゴンパゴダも素晴らしかったけど、バガンの方が好き。
もう一つの感想としては、今まででお金の持ち方が一番難しかった国ということ。
これは、自分があまり発展途上国に行っていないだけかもしれないが、かなり印象的だった。
これから行ってみたいという人もいるかもしれないので、
旅のインフラ的なものを記録しておこうと思う。
通貨
現地通貨
現地通貨は「Kyat(チャット)」。
レートは大体、1ドル=1000チャットと考えればOK。
外貨調達 -現金両替-
ミャンマーに渡航する前に、事前にUSドルを用意しておいたほうが良い。
というのは、日本円は、ミャンマーではメジャーではない。USドルかユーロが主流。
空港では日本円も両替可能。
しかし、ヤンゴン市内に行ってしまうと日本円では両替できないところもあり不便が生じる。
外貨調達 -ATMでのキャッシング-
クレジットカードによるATMでのキャッシングを勧めているサイトもあり試してみたが、我々はどういうわけかATMに拒否され続け、結局キャッシングできなかった。
また、引き出したい金額を任意に入力できない。
あらかじめATMで設定されたいくつかの金額から選択するのだが、最低キャッシング額が50,000チャットに設定されていた。少額のチャット入手には不向き。
いずれにせよ、日本円はメジャーではなく、キャッシングも機械任せになってしまうため、現金でピン札のUSドルを持っておくのが一番安全。
USドルを持つ際の注意点
ここで注意したいのが、USドルはピン札でないと受け取りを拒否される可能性が高いということ。
「そんなことないだろー」と思っていたが、折り目のついていただけの綺麗なドル札が本当に拒否された。しかも、かなり小綺麗なバーで。
こう書いてしまうとツッケンドンに返されてしまう印象だけど、そういうことではなく、
「すみません、折り目の付いてない札はないですか?」
的なやんわりとした拒否をされる。
場所によるのかもしれないが、ピン札がベター。財布にしまう際も注意しておきたい
USドルはそのまま使える?クレジットカードは?
USドルがそのまま使える店もある。
しかし、高級な店かオシャレな風貌の店、もしくはホテルに限られている。
数はあまり多くない。
また、クレジットカードが使える店も先述の店に限られる。
ローカルな場所を旅したいのであれば、クレジットカードはまず使えないと考えて良い。
カードを使いたい場合は事前にカード使用可否を確認しておく必要あり。
モバイル通信環境の確保
プリペイドSIMを購入
旅先でスマホをいじり倒すことはその場所の景色を見逃す機会が増えてしまうわけだが、Googleマップが使えるか使えないかで、旅の効率は大幅に変わる。
そのため通信手段を確保することに対しての優先度はとても高く設定している。
Pocket Wi-Fiのレンタルサービスを借りるのも手だし、事前に準備ができてラクなのだが、現地にプリペイドSIMがある国であれば、SIMを購入することにしている。
単純にスマホでダイレクトに通信できたほうがすぐに使えるし便利。
ポケットWi-Fiの電池も気にしなくて良い。
そうしているうちに、現地のプリペイドSIMを購入するのは一つの趣味と化した。
現地のSIMを使用すると購入方法や価格、通信速度などから、その国の通信事情を把握できる。
別に把握する必要はないのだけど、これは趣味。奥さんにも了解を頂き、購入の時間を割かせてもらっている。
幸い、去年からミャンマーもプリペイドSIMを取り扱っているとの嬉しい情報あり。
購入方法
到着ゲートを出て無数のタクシーの勧誘を抜けると、通信キャリアのブースが並んでいるので、見つけることはとても簡単。
事前Google調査の結果、3〜4社あるうち最も使い勝手の良いと書かれていたOoredooを購入。
プリペイドSIMの外箱。文字化けしているかのようなビルマ語が旅行感を高める |
意外だったのはNano SIMが売っていたこと。
発展途上国の場合、プリペイドSIMは売っていてもサイズがmicro SIMまでの場合が多く、SIMカッターを使ってサイズ調整する風景をよく見かける。
プリペイドSIMの取り扱い自体が新しいから、はじめからnano SIMの生産が行われていたのかもしれない。
価格は
- SIMカード代=1,000 kyat
- 500MB分のネットワーク用トップアップ=4,500 kyat
合計5,500 kyat だったと思う。
ドルかクレジットカードで買おうとしたら、「チャット現金払い専用だよ」と言われたため、現地通貨での現金必須。
モバイルネットを開通させる
SIMを購入した後、SMSによるアクティベートが必要。
ビルマ語は解読が非常に困難なため、店員に電話を渡してしまうのが良い。
iPhoneを手渡したところ、高速タイピングで手際よくサササッと手続きを終えてくれた。
その場でネット使用可否を確認(発展途上国はこれが重要)し、問題ないことを互いに整合。
店「今は+500MBのボーナス付きだよ」
俺「ってことは、1GB使えるんだよね?」
店「いや、500MB+500MBだよ」
というよくわからないやりとりを終えて、店を後にする。
結局、600円くらいで合計1GB使えることになった。
通信速度
速度テストの結果、ヤンゴン市内は安定して下り3Mbps、上り1Mbps弱。
ヤンゴン市内の通信テスト結果 |
発展途上国でこの速度はまずまずといったところだろう。
時々通信が途切れるけど、ストレスになるものではない。
使用可能エリア
ヤンゴンではどこでも問題なく使えたが、バガンでは屋外でもギリギリ使えるか使えないか、といったところ。
建物の中に入るとほぼNG。
Wi-Fiはあるか?
ヤンゴンは、中心地に行くとおしゃれな風貌のカフェもチラホラある。
オシャレな風貌のカフェには、フリーWi-Fiがあるとこも高い。
店員に「Wi-Fiあります?」と聞いてみると良い。
場所によると思うが、我々が使用できたWi-Fiはどれも激遅。
上り下りともに0.1Mbps以下くらいだったかな。
速度テストが立ち上がるかどうか、といった所。
「今月の支払いしてないからすごく遅くなってるんだ、ごめんね」
なんて店もあり、なんかホッコリ。
まぁ、そんな環境でもLINEのテキストのやりとり程度には不自由しない。
ということは、グループで旅行しても別行動ができる。
プリペイドSIMが無くとも、連絡をとりあう時間を決めてカフェを探し、互いに連絡を取れば良い。
連絡する時間が近づいたらカフェに入って暑さやスコールを凌ぎ、休憩がてらフリーWi-Fiを使ってLINEで連絡をとりあって待ち合わせ場所を決める、なんて使い方も可能。ヤンゴン中心地であればカフェは容易に見つかる。
外貨の取り扱いにだけ注意すれば、問題ない旅を満喫できる。
ペルー・ボリビア旅行記 番外編 -空港で怪しまれた-
ウユニ塩湖の記録で終わらそうと思っていた旅行記。
だが、一つ、面白い体験を思い出したので記録しておこうと思う。
体調最悪状態から回復した、帰路の中継点、ヒューストンで起こった話。
事の経緯
リマの空港でチェックイン
リマに到着した時は、ウユニ・ラパスでの体調不良のヤマを超えていた。
リマからはヒューストン→成田→バンコクという乗り継ぎがあるものの、United Airで航空券を一括手配しているため、リマでチェックインを終わらせてしまえばスーツケースをピックアップすることもなくバンコクまで到着することができる。
張っていた気も緩み、健康状態も回復して無事にチェックインを完了。
発券された航空券に少し見慣れない文字が書かれていたが、あまり気にせずに最後の南米空港を満喫した。
もう、バンコク到着までのネガ項目はすべてクリアーしたと確信し、次なる中継地点のヒューストンに向かった。
ヒューストンで乗り換え
ヒューストンの空港で入国手続きを済ませ、乗り継ぎのためそのまま保安所に向かう。
すると…
なんか、デカイアメリカ人が「あなた達はコッチ来て」と。
夫婦ともども、保安所に並ぶ搭乗客とは違うルートで検査機に向かう。
英語が達者ではないので、色々言われていたが完全には理解できず、かと言って「Yes」と言ってしまうとなんだかヤバイ気がして曖昧な返事をしていた。
乗客員に横入りするような感じで検査機に到着。
「じゃ、検査機を通ってみて」
とデカイアメリカ人に促される。
他の人は普通に検査機に入るだけで流れ作業なのに、何故か我々は検査員にガン見されている。
ここまでの奇妙な行動でうすうす感じていたが、
「よくわからないけど、俺たち怪しまれてるんじゃね?」
という疑問が確信に変わっていった。
しかし、我々は何も悪いことをしていない。
アメリカの検査はうるさい厳しいことも前情報で掴んでおり、怪しいと思われるものはお土産としても買っていないし持ち帰っていない。
「これは大丈夫よ」と言われていたコカ茶のティーパックですらここまでの道程で捨ててきた。
これ以上変に怪しまれないためにも、この状況に萎縮せずにできるだけ堂々としていることが一番だと思い、堂々と検査機に入る。
往路と同じ、普通のゲートではないCTスキャンの筒が縦になったような検査機である。
バンザイをした状態で検査機に入り、グルッ!とセンサーが回る。
ここで予想外の出来事。
検査機のセンサーに引っかかってしまった。
検査機が鳴ることなんて、普通でもあまりあることではない。
なんでこんな変に怪しまれている状況で鳴ってしまったのか…
自分でも、何が原因で鳴ったのかわからないまま、探知機でのボディチェックが始まった。
ベルトもしていない、時計も外した。ケータイもカゴの中である。
「なんだろう…」と思っていると、お腹をさした時点で探知機が「ピュイーーーン」と反応した。
お腹?
パっとシャツの裾を上げ、ヒートテックに覆われたお腹を見てハッとした。
そう、私は数時間前まで、極度の体調不良で下痢に襲われていた。
下痢緩和を図り、私のお腹には、剥がし忘れたはるオンパックスが貼られていた。
既に冷えきってしまい機能を果たしていないが、
黒い粉末を白い袋に包み、
お腹に貼って、
シャツで隠して、
検査機を通った
という客観的な事実が発生した。
当方が隠し持っていた黒い粉 |
「なんだこれは…?」的なアメリカ人の反応。
お腹からはるオンパックスを剥がすよう促され、手渡した。
それはそれは、使命を全うし終えたはるオンパックスを慎重にチェックしている。
アメリカではホッカイロの存在がメジャーではないのかもしれない。
その手つきは、警察密着24時で袋に小分けにされた白い粉末を扱うソレ、もしくは爆発物等の危険物を扱うアレと完全に一致していた。
凄い体格のアメリカ人がホッカイロを怪しんで、そーーーっと触っているという光景のあまりのシュールさと、「これをどうやって説明すれば穏便に済むんだ」という頭のフル回転により、私の顔は自然と笑顔になっていた。
一応、つたない英語で
「これは暖かくなるためのツールで、もう使い終わっているから冷たい」
的な表現をしてみるが、「は?」みたいなリアクションを見せ話を聞いてくれない(たぶん私の英語の意味がわかっていないのが9割)。
こんな時の頼りのチート「Google画像検索」も、スマホが検査対象になっているため手元に無く、発動できない。
その後、はるオンパックスは検査紙のような何かで入念に拭かれ、紫外線があたっているようなセンサーに当てられたり、他の人にみせられたりされて、保安所のアチコチを暫く彷徨った。
この時には既に開き直って「まぁ変に怪しまれていきなり取調室に連れて行かれるよりは、この場でアレが入念にチェックされて問題ないって分かられたほうがいいや」と思い、その光景を楽しんでいた。
はるオンパックスが色々なアメリカ人に触られている間、私のカラダもリュックの中身も入念にチェックされた。ビデオカメラや常備薬入れなども全部紙で拭かれて何かをチェックしている模様だった。
はるオンパックスを差し出された空港のスタッフの方達は決まってこちらをチラチラ見てくるし、面白いを通り越して「なんかホッカイロで騒がせちゃってスミマセン」的な感情すら湧いてきた。
それからほどなくして、検査も終了。
どうやら無罪放免となったらしく開放された。
その時間、30分位はあっただろうか。
保安所でこんなに時間を使ったのは初めてだ。
もちろん、さんざんお騒がせした冷えきったはるオンパックスは、その場で廃棄された。
アディオス、トラブルの原因。
その後奥さんと合流し、聞いてみたところ、同じように手荷物を根掘り葉掘りチェックされ、同じように楽しんでいたようだ。
奥さんの場合、おみやげに買ったアルパカの人形も入念に拭かれていたことが面白かったと言っていた。
原因を調べてみた
感じていた違和感
そもそも、なんでこんな目にあったのか。
いきなりチェックイン時に「はいこちら~」と案内された段取りの良さから、その場で怪しまれたというよりは何かしら決まっていた行動のように思えた。
気になったのは、航空券に感じた違和感。
ふとチケットを見返してみたところ、見慣れない "SSSS" という文字が印刷されていた。
外部サイトより転載。光り輝くSSSSの文字 |
帰国後にネットで調べてみたところ、
Secondary Security Screening Selection
と呼ばれるシステムらしい。
これに選ばれた人は、特別に厳しい検査を受ける対象となるとのこと。
色々調べていると、このシステムに選ばれる条件として
- 片道の航空券しか持ってない人
- 監視リスト(watch list)に載られた人
- 航空券を購入する時、身分証明(IDやパスポート)を提出してない人
- 無作為(ランダム)選択
とのこと。3と4が当てはまる。
面白おかしくSSSSを説明しているこの記事が一番わかり易い。
他の記事では、目的が爆発物の検査的な事も書かれており、
- はるオンパックスの砂鉄=火薬
- 腹に巻く=自爆テロ
そんな可能性を持たれていたのかもしれない(厨二病の憶測ですが)。
そりゃ、爆発物の検査となれば、どんな物も慎重に扱うのは当然である。
リマからバンコクに戻る日本人、っていうのが珍しくて引っかかったんだろうか。
それとも単なるランダムで選ばれし者になったのか。
SSSS対象になった根拠はわからないが、色々検査をされた理由が"SSSSとチケットに書かれていたから"、ということは明確になりスッキリした。
ただ、1回SSSSに選ばれると次回も選ばれる確率が高いとのことで、なんだか面倒だ…
常に選ばれし者で居続けなくてはいけないと思うと、マジめんどくさい。
唯一のメリットは、チェックインから保安所までエスコートして頂けるということだろう。
まぁ、アメリカ大陸に降り立つことなんてこれから先何度あるかわからないが。
皆様もSSSSと記載されたチケットが発券されたら、どうぞアメリカの最上級の検査を楽しんで下さい。
ちょっと違う体験をしたければ、
はるオンパックス、お勧めです。
(まだあったかいやつだと、もっと騒いじゃうかな…)
ペルー・ボリビア旅行記 -ウユニ塩湖-
ウユニ塩湖に行ってきた
新婚旅行の最終目的地、ウユニ塩湖。
当新婚旅行はマチュピチュ・ナスカ地上絵を大きな目的としていて、ウユニ塩湖は「意外に休み取れたから行っちゃおうよ」的なノリで行った。
結果、一番思い出に残る場所となった。
「奇跡だ!」と思える風景って、滅多にないと思う。
この素晴らしさは、言葉でも写真でも表せない。
過酷だったけど、本当に行ってよかった。
過酷な環境であるが故、あの奇跡の景色があるのだと思う。
ウユニ塩湖でやったこと
- 塩の目を見る
- 塩原でピクニック
- トリック撮影
- 塩のホテル(ルナサラダ)に泊まる
- ウェディング撮影
- 水面に移った姿で遊ぶ
- サンセットを見ながらホットワインを飲む
塩の目
ウユニ塩湖に入る車はランドクルーザーが主流。
一番タフなのだという。さすがだぜ、Made in Japan!!
荒野から塩湖に入り始めてまだ白い景色が始まらない段階で、塩の目を見ることができる。塩原が割れていて、塩分濃度の高い塩水が湧き出ている。
リウマチに効くらしく、現地の老夫婦が塩の目に入りに来ていた。
湧き出ている部分。ポコポコ言っている |
リウマチを緩和しに来ていた老夫婦 |
すげー仲良さそうでホッコリ |
塩原でピクニック
塩の目から暫く車を走らせると、辺り一面が真っ白の世界になる。
塩の白と、空の青のみ。
これだけでこんなに素晴らしい風景になるとは。
白と青と我々のみ |
そこにテーブルを置いてピクニック |
持参した三脚 |
昼食の準備 |
最高か! |
体力補給に最適な、糖分たっぷりコーラで乾杯 |
ピクニックで食べたもの
- ボリビアでよく食べられるというカツレツ的なもの
- キヌア(最近世界で注目されている穀物。ボリビアの主食)
- サラダ
- コーラ(酸素が薄いため糖度の高い飲み物が良い)
何を食べたって、この環境ではうまく感じる。
その他、塩湖を移動している時に、初代塩のホテルやダカールモニュメントにも立ち寄った。
初代塩のホテルはいま休憩所と土産物屋になっている 様々な国旗が自由に立てられている |
ダカール・ボリビアのモニュメントを発見 |
トリック撮影
塩原に来たら、やっとかなくてはいけないのがトリック撮影。
遠近感を狂わせるこの場ならではの楽しみ方。
限られた時間で、色々試してみたが、なかなか難しかった。
距離感を混乱させるのがトリックのタネであるため、背景が綺麗にボケてしまうような良いカメラは撮影に向かない。どれだけ絞っても、ボケてしまう。
安いコンデジやスマホくらいのスペックのほうが、綺麗に取れると思う。
指人形と戦ってみる |
エッフェル塔を倒してみる |
巨人になって踏んでみる |
ガイドさんに言われるままにジャンプ (トリック写真ではないです) |
意外に難しいし、そこまで拘らなくてもいいのだと思う。
こういう遊びはほどほどにして、限られた時間の中でもっと塩湖自体の素晴らしさを肉眼に焼き付けたほうが良い。
塩のホテルに泊まる
塩原で遊んだ後は、一旦休憩。
ウユニ塩湖に2泊3日いるため、塩湖内のホテルに泊まることにした。
午後にまた再出発するまでの間、ホテルでゆっくり休憩をとる。
ガイドさんは3~4時間ほど休憩時間を設けている。
「いやー時間が勿体無いな…」と思ってしまうが、ガイドから昼寝を勧められたため、とりあえず興奮を抑えてベッドに横になったら即爆睡。
アドレナリンに隠れて肉体は既に疲弊しきっていた。酸素の薄いこの環境であることを忘れてはいけない。
存分に遊ぶためには、休憩こそしっかりと取らなければならない。
塩のホテルは3〜4箇所あるらしいのだが、我々はルナサラダというホテルに宿泊した。
壁や床はすべて塩で出来ている。
入り口 |
入り口から想像できない素敵なロビー |
廊下 |
部屋のベッド |
部屋の一部。すべて塩 |
入り口からの景観。絶景 |
入り口から外を見渡すと、朝はビクーニャが走り回っている風景も見れた。
ビバ自然。素晴らしすぎる。
いざ、天空の鏡の世界へ
昼寝をしっかり取ったら完全にダルくなってしまい、今日はもういいよ、とか思ってしまう始末。
しかし、人間が脳に分泌するアドレナリンとは凄いもので、塩湖に入った瞬間にそんなダルさも吹き飛んでしまう。
それほど大きな衝撃の景色を見ることができる。
衛星写真でもハッキリとわかるとんでもない広さで、高低差が50cmしかない。
ただただ広がる平らな地平線で、精神と時の部屋にでもいるんじゃないかという錯覚。
我々が訪れたのは4月中旬であったが、とてもラッキーな事に、乾季に入っていたが数日前に雨が降ったらしく、水が薄く張っている箇所を容易に探すことができた。
とりあえずジャンプ |
ヌルマユの旗を持ってパシャリ |
風が強く波紋が出てしまう。しかも寒い |
上の写真を見てもわかるように、初日の塩湖は風が強めで水面に綺麗に写らなかった
ウェディング撮影
「せっかく行くんだから、バカみたいなことしようや」
ということで、タイから安いウェディングドレスを持ち込んだ。
ここでウェディング的な撮影をしてしまおうという魂胆。
ランクルの上で |
トリックアートと合わせて |
塩原に立って |
うちらぐらいだろ、こんなことしてるの!と思ったものの、結構同じことを思いついた方は多く、同じホテルに止まっていた日本人も全く同じ準備をしていた模様。
わざわざ30時間もかけて来るのだ、皆様気合が入っていて当然である。
ウユニ塩湖1日目、とてつもなく感動はしたものの、風が強くベストコンディションではなかった。
明日は風が消えることを願って、早めに就寝した。
塩湖 2日目 天空の鏡リベンジ
我々はつくづくラッキーだ。
2日目、風が一切なくなった。
本当に水面が鏡となっている。ここぞとばかりに遊んだ遊んだ。
綺麗に写っている |
太陽もバッチリ2つ |
まぁ、定番ですね |
頭に後光をと思ったら、 偶然にも水面の太陽がキンタマリオ |
日が落ちてきても無風 |
テーブル |
当たり前のことだけど、水面で遊ぶと水が跳ねるので下半身は完全防水仕様。
当方は、ゴアパンツ+ゴアトレッキングシューズ。
ツアー会社が長靴を用意してくれていたが、バカの大足のため入らず。
サンセットを見ながらホットワインを飲む
夕日になってきたところで、ガイドさんがホットワインを準備してくれた。最高である
夕日 |
ベストショットの1つ フラミンゴの群れを撮りに行った別の団体さん と私の三脚 |
もう最高 |
ホットワイン会場 思い出すとグッと来る |
とにかく、360°すべてが夕日で、 アングル別に色が違う |
無風最高!! |
当旅のベストショットでしょうか |
嫁さんも大満足 |
日が落ちる瞬間が素晴らしすぎる |
これ以上に素晴らしい夕日を、これからの生涯で見る自信がないと思ってしまうほど感動した。
無風状態の塩湖で、ホットワインを飲みながら夕日が沈むまでボーっとしていた時がこの旅の一番のハイライトだと思う。
時間ごとに天候が変わってしまう標高の高いウユニにて、2日目で鏡面リベンジが出来たのは、本当にラッキーだった。
番外編:夜空撮影
わざわざ持ってきた三脚もあることだし、夜空を撮影してみた。
遮るものは何もないし、水面の下は白い塩原のため、月の光が反射してなかなか星が映らない。
テレビでよくやっている「新月の時がベスト」という意味がわかった。
15秒くらいシャッター開けてこれ本当は真っ暗です |
ここの素晴らしさは、写真でも言葉でも表せない。
とにかく、360°の地平線・水平線にひたすら酔いしれながらぼーっとするのが一番
「地球ってデケェな…」というアタリマエのことを真正面から改めて実感した。
そして
ウユニ塩湖で丸2日間遊び倒した翌日。
塩のホテルのベッドの上で私を襲ったのは、極度の体調不良。
頭痛・寒気・下痢・吐き気。一気に襲い掛かってきた。
温度差による風邪か、高山病か、食あたりか、はたまた全部か…
ウユニ塩湖初日、「もうこの後の目的地はないし」と思って、この旅で控えていたビールを飲んだ。
それが祟ったか、ピクニックで食べた生野菜があたったか、単なる体力切れか。
2日目からお腹の調子が悪かったものの、整腸剤と正露丸糖衣Aでなんとかなっていた
3日目、どうしようもならなくなった。
当時の私は、原因を考えられるほど余裕が無い。
これから36時間の大移動をするコンディションとしては最悪である。
室温の上がらないランクルに耐えつつ、空港の到着を待つ。
空港に着いても、空港が寒い。
なんとかカラダを温めようと、フライトの時間までホットココア等を飲んで暖を取る。
まぁ、効かないこと効かないこと。
飛行機に乗る前に出す物は全部出して、うずくまりながら出発。
お世話になったガイドさんに丁寧な挨拶もできず、最終目的地を発った。
1時間後、最初の中継地、ラパス(標高3,800m)に到着。
少し時間があったので、一旦街まで行ってスーパーなどで買い物をしたが、体調は一向に回復せず、楽しめなかった。
我々のために時間を割いてくれたラパス在住日本人の方には、本当に申し訳ないことをした。
ラパス発の飛行機内では、真冬の格好+蒸気でホットアイマスクのフル装備で就寝。
中継地点、サンタ・クルス(標高400m程度)で一旦着陸した時には、回復が始まっていた。
このことから、恐らく、酸素が足りていなかったのだと思う。
登山家 栗城氏の「酸素があればなんでもできる」という言葉を痛く痛感した。
その後の中継地、リマではマックを食べられるほどに回復。
トランジットの成田空港では、意地でもビールと最後の寿司を煽る。
タイ到着時には、元気な状態まで回復していた。
<中継地点ごとの回復具合>
- ウユニ = 死亡、ココア飲むのも辛い
- ラパス = 死亡、バナナジュースを飲んで少し落ち着く
- サンタクルス = 快復開始、ひたすら睡眠
- リマ = ほぼ快復、マックを食す
- ヒューストン = ほぼ快復
- 成田 = SAPPORO生と寿司でメンタル100%快復
- バンコク = 全快
まぁ、よくこんだけ乗継したもんだ。
回復して本当に良かった。
塩湖にいる時はアドレナリン全開のため、その時は気づかないが、体力が恐ろしく消耗している。
気を抜いた瞬間に自然の猛威が襲ってくる。
ウユニ塩湖は、そんな過酷な環境と奇跡の空間が隣り合わせである。
そのため、もう一度行きたい!とは気軽に言えないが、これだけは強く言える。
人生の中で一度は行っておくことをオススメしたい。
できれば、体力のあるうちに行った方が、心から楽しめると思う。
で、休み後の出勤
出勤してすぐ、ニット帽の境界線でオデコの日焼けがツートンカラーになっている顔をスタッフに笑われた。
紫外線マジで強い。顔パリパリ、境界線くっきり。
お陰様で、長期休暇を取った気まずさも緩和し、めでたく終了。
時間も金も相当使ったものの、何の後悔もないグレートジャーニーだった。
南米はとにかく自然のスケールがでかい。
ブラジル、チリ、ガラパゴス(エクアドル)辺りにも行ってみたい。
まとめ
- 塩湖には2泊以上泊まったほうが良い
- よく遊ぶためには、時間を惜しまずよく休む
- 着込んでも着込みすぎることはない
- 下半身は防水仕様で(遊ぶと塩湖の水が跳ねる)
- カメラ好きなら三脚は必須
- 紫外線半端なし。サングラス・日焼け止め必須
- ツアー会社が長靴を用意しているか確認
- トリック写真にムキにならず、自然を楽しむ
- 体力のあるうちに行くべし