ジュセヨ運転手
過去記事にて、運転手の問題について触れました。
そんな思い出を不定期にふりかえらせていただきます。
ジュセヨドライバー
総合的に勤務態度の良くない運転手
もう2年以上前の話になるだろうか。
その時の運転手は、遅刻はするわ運転中に居眠りしそうになるわで、いつもハラハライライラしていた。それでも赴任直後の自分は、自分の接し方でなんとかなるはずだと根気よく我慢していた。
そんな自分の我慢を後悔させる出来事が起こったのだった。
おや?うんてんしゅのようすが・・・
ある日、仕事が終わって車に乗り込み、帰路を急いでいた。
私が急いでいるのを感じ取ったのか、今日の運転手、高速道路でスピードめちゃくちゃ出してる。
最初は早く帰りたかったから黙っていたが、スピードの出し方がおかしい。
なんだか、断続的にアクセルを踏んでいる。
スピードメーターを見ると、時速80~140kmを行き来している状態。
(会社のルールでは最高時速100kmとしている)
こいつ、大丈夫か!?何か脳梗塞とかなってないか?と感じ、運転手に「急がなくていいから時速100kmを保って」と指示。
運転手は「カポン(カップの上位変換)」と言い、一時は100kmを維持。
ウトウトし始めたころ、G(重力)を感じてハッと起きた。
スピードメーターはまた140kmを指しており、スピードは衰えるどころか上がろうとしている。
「運転手、気でも失ったか!?」とミラー越しに顔を見ると、起きている。
目が合うと、慌てたように笑顔を見せてスピードを戻す。
「なんかおかしいな・・・」と注意深く伺っていたら、何かを感じたのか色々話しかけてきた。
「雨降りそうですね」
「明日は晴れますかね」
「今日は渋滞ないですね」
「昨日の渋滞はひどかったですね」
などなど。
こんな世間話は、今まで話したこともないフレーズばかり。いよいよなんだか怪しい。変だな~変だな~、と、稲川淳二の階段のように嫌な予感が立ち込める。
高速を降りて信号待ちの時、私が怪しんでいる空気を感じて手持ち無沙汰になったか、運転手は自分のバッグから飲み物のボトルを取り出し、グビッと一口飲んでバッグに戻した。
ん?そのボトル、見たことあるような。
っていうか、瓶?
みりんの瓶みたいな色してるけど、何飲んだ?
・・・と、何だか気になった嫌な予感は的中した。
バッグの中に手を入れて取り出したボトルを見て、私は青ざめた。
チャミスル・ジュセヨである。
まぁ、みりんっぽい瓶っていうのはなんとなく合ってたかな…
"昨晩の酒が残った飲酒運転"は想像できるが、まさか"飲酒しながら運転している"とは思っていなかった。
「うえーーー!マジで!!!」と大声を上げて驚く私を見て、運転手も焦ったのかとっさに放った一言は下記の通り。
「BOSS、飲んだのちょっとだから大丈夫です」
もう、怒りとかそういうのを完全に超えて、呆れも超えて、恐怖しかなかった。
チャミスルの瓶が好きなだけで他の飲み物を入れているという可能性を信じ、中身の臭いを確認したが、純度の高い焼酎であることを確認できただけだった。
それから家に着くまでの間、気が気ではなかった。
今だったらその場でクビを言い渡し、自分で運転して帰れるくらいの度胸と方向感覚は備わったが、赴任当時は道もわからないしバンコクの道を運転する自信もない。
ジュセヨドライバーの運転で、無事に帰宅できることを願うしか無かったのだ。
運転手は必死に「ほんとにちょっとなんで!」と摂取量の僅かさを主張しているが、内容量的に恐らく3分の1は飲んでいただろう。
「嘘つけ!」と、今の感情にまかせてワーッと叱ろうとするも、踏みとどまった。
なぜなら、パニックになったり逆ギレしたりしかねない。
今の状態で一番安全なのは、これ以上状況を悪化させないことだ。
もう、だんまりを決め込んで家まで祈ろう。
そう覚悟を決めて、私はチャミスルの瓶を握りしめた(テンパった運転手が間違ってこれ以上飲まないように)。
駐車場に無事車庫入れを済ませ、車の鍵を受け取ったところで、「あなたクビね。明日から来ないでね」と言い渡すと、意外な返事が返ってきた。
「いや、ちょっとですし!大丈夫ですって!」
何が大丈夫だというのか。
もう、一刻も早くこの場から離れたい。
そんな感情を押し殺し、拙いタイ語でなだめて家に帰った。
翌日、総務に事の成り行きを話したところ、チャミスルを持っていた原因が判明。
原因は、我が社のスタッフであった。
というのは、我が社のスタッフは長期休暇を使って韓国に旅行し、土産として運転手にチャミスルを渡したのだという。
その土産もどうなのよ、とは思うが、その場で味見をしてしまって楽しくなっちゃって結構飲んじゃったかと思うと、なんだかもう考えるのをやめたくなった。
その後、総務から運転手に電話して正式に理由を言い渡してもらった所、「ちょっとだけ飲んだんですよ」と弁解し、まだ働きたいと言っていたらしい。
っていうか、それをそのまま「まだ働きたいって言ってますけど、どうします?」と聞いてくる総務、あんたもちょっとマズイよ。
みなさまもお土産のチョイスにはお気をつけ下さい。
ネパール旅行記 -トラブルで優しさに触れる-
ネパール人はモラリスト
自分、やってしまう
バンコク→カトマンズの移動が済み、プリペイドSIMを購入。
そのままポカラに向かうため、国内線の空港へ向かう。
国内線の空港は微妙に国際線と分かれており、徒歩で10分くらいかかる。
その微妙な距離間、道路の舗装もあまり良くないため、重たいスーツケースを引いて歩くのに絶妙にしんどい。
とりあえず無事に移動を終え、国内線のチェックインを済ませた。
手荷物検査を済ませて、搭乗までの時間つぶしのために、奥さんはiPadを手にした。
俺も読みかけのBREACHを片付けてしまおう、と、バックパックのポケットの中にあるiPadに手をかけた。
・・・すると、バックパックのポケット中の手は「スカッ」という擬態語で返した。
やってしまった。iPadが無い。
バンコク-カトマンズ間の飛行機に置き忘れてしまった。
一応何度もバックパックの中を確認するが、やっぱりない。
うーん、どうするか。
焦ってしまうものの、焦っても仕方がないので冷静になれと言い聞かせ、方法を探る。
奥さんはイヤホンを付けてiPadから流れる海外ドラマに夢中だ。
今のところ私がテンパっていることに気づいていない。
よし、奥さんに怒られる前に、色々片付けてしまおう。
というわけのわからない考えが頭をよぎった。
幸い、プリペイドSIMをゲットしているので、スマホでインターネットが使える。
スワンナプーム空港の遺失物窓口にLINE OUTで電話し(この類の通話機能、こういう時マジ便利ね)、問い合わせるも「それタイ航空に電話して」と言われ切られてしまう。
マズイ、なんとなくたらい回しにされそうな雰囲気だ・・・
そうこうしているうちに、ポカラ行きの搭乗が始まりそうだ。
こういうことは早く連絡して忘れ物を確保しないと、いろんな人が持ち帰ろうとすることをジャカルタで身を持って体験している。
ふと、この旅のカトマンズ-ポカラ間の航空券を購入したネパール現地旅行代理店を思い出した。
ここに問合せて、どうすればいいか聞くのが一番早いはずだ。
早速電話すると、日本語ができるネパール人が対応してくれた。
「アー、iPadですネ、いつの便でスカ?座席は?半券持っテマすか?」
「モウ、ポカラのフライトですよね?じゃぁ私が空港に問合せておきマス。ポカラについたらまた連絡してネ」
なんと心強い。そして手際が良い。
こういうトラブル時の頼りどころをを確保しておく目的でも、すべて自分で手配するのではなく、代理店を通して手配することもめちゃくちゃメリットあるな、と感じた瞬間だった。
その後、iPhoneを探すアプリでiPadを紛失モードにするよう設定。
やれることはやったので、あとは飛行機から持ち去られていないことを祈るしか無い。
だいぶ心も落ち着いたので奥さんに事の顛末を打ち上げ、呆れられたところで国内線に搭乗し、ポカラを目指した。
ポカラ到着
ポカラ空港に到着し、ホテルにチェックイン。
早速、気になっていたiPadの行方を確かめるため、代理店に電話。
「アー、ポカラ着キマシタカ?お疲れ様でシタ~」
「あーのね、iPadなんでスガ・・・」
ん?声のトーンが低い!!
もしや・・・
まぁ、海外で紛失するということはそういうことだ。
「アリました。もうタイ航空のオフィスに保管サレテマスよ」
もうネパール人超好き。優しい。
このエピソードのお陰で、ネパール既に赤丸急上昇状態。
旅行開始から10時間足らずで、既にネパール人に2回も助けられている。
iPadの回収・保管、空港への問合せ。
もう、感謝しか無い。
お陰様で、楽しく旅行を開始することができた。
また、ネパール人のモラルの高さや優しさにも触れることができ、結果的には良かったと思っている。
それにしても自分、こういうことをたまにスッとやり遂げる傾向があるのやめて欲しい。
Evernoteとか1Passwordとか、そういうものが入っているのでApple系のデバイスを落とすってマジ怖い。
ネパール人本当にありがとう。
ネパール旅行記 -概要-
なんでネパールに行ったのか
タイの旧正月を利用して、ネパールへ旅行に行ってきた。
なんでネパールだったかというと、
- 地震から1年でどれだけ復旧したのかを確認したい
- 観光というお金の落とし方で復旧支援したい
- 日本に帰ったら気軽に行ける場所ではない
- ヒマラヤ山脈を見たい
という理由から。
タイ仏教では「タンブン」という徳を積む行為がごく普通に行われており、明らかに収入が低い人でも物乞いの人にお金を恵む光景がよく見られる。
1年前、ネパール大地震が発生した直後から、タイでは募金が始まっていた。
タンブンと一緒で、チャリティーTシャツを買ったり募金したり、とても普通に事が進んでいてタイ人の優しさに感動したのを覚えている。
そんなタイ人の支援がどう実っているのか、確認したかった。
ネパールという国自体には何も期待しておらず、支援のために観光業を通してお金を落とすことと、ヒマラヤを見る事を目的としていた。
だが、スペインに続く「もう一度行きたい国」にまでのし上がった。
バックパッカーの3大"沈没"地として知られている所以が理解できた。
ネパールは超好印象
印象を箇条書すると、
- ネパール人が人懐っこいが、しつこくない
- 埃っぽい、空気は悪い
- メシが安くてうまい。色々な国籍料理が揃っている
- コーヒーも安くてうまい
- 信仰心が厚い
- ヒマラヤ超デカイ
- 犬かわいい
- 英語通じる(街中では)
といった感じ。
とにかく、ダラダラと過ごしやすい。
観光VISAの取得
日本パスポート所有者は事前取得する必要なし。
到着ロビーにて購入可能。
15日以内は、20ドルだったと思う。
証明写真が必要という記事を読んでいたので事前に用意していたが、写真がない場合でもVISAカウンターの横にある機械でパスポートをスキャンすれば問題ない、っぽいことを並んでいた中国人のオバちゃんから聞いた。
まぁ、スムーズなVISA申請のためにも証明写真は持っていくことをオススメする。
通貨・両替
ネパールルピー(NRP)が使われている。
1NRP ≒ 1円くらい。非常に換算しやすい。
今回訪れたカトマンズ・ポカラには街中に両替商があり、日本円の両替も可能。
いきなり空港で多めに両替する必要は無い。
ちなみに我々はタイ在住なのだが、一応USドルにしたものを持ち込んで使った。
通信事情 モバイル
プリペイドSIM購入方法
プリペイドSIMは購入可能。
空港出口にあるキャリアの窓口で購入できる。我々はNcellという会社を利用した。
これがNcellのロゴ。
街でもよく見かける紫の看板。
NcellのプリペイドSIM購入に必要な物は
- 申込書(その場で記入)
- パスポート
- 証明写真1枚
と、3がちょっとトリッキーだが、VISAで使うので余分に持って行っておけば問題ない。
申込方法と料金
窓口の兄さんは忙しいのか、あまり親切ではなかった。
料金のプランなどは一切聞いてこなかったので、「1GBの通信オンリープランをお願い」と伝えた。
すると、「1,000NRP(約1,000円)だよ」とのこと。
あとは携帯を渡してお兄さんに任せる。
当方iPhone 6使用であるが、プリペイドSIMのサイズは一番大きいやつ。
他の客の問合せを手際よく捌きながらSIMカッターとヤスリを使ってサイズを変え、SMSを使ってプランを申請したようだ。
ちゃんと通信できるかどうかを確認した後、電話番号のメモと電話を渡される。
これでGoogle Mapが使えるので旅が捗る。
通信速度
カトマンズ市内、ポカラ市内での利用は、大体下り3Mbps/上り1Mbps程度。
普通に使う分には全く問題なし。
また、NcellはTwitterと契約しているらしく、Twitter公式アプリを使っていると「NcellはTwitterフリーだよ」的な表示が出ていた。
通信事情 Wifi
ホテルやレストラン、カフェにはWifiが完備されているところが多い。
店員に「Wifiある?」と聞いてみれば、ほぼ教えてくれる。
ただし、激遅でinstagramやFacebookの更新もモタモタする。
インターネットでグルメ情報を調べたりするのもかなり時間がかかるため、できればプリペイドSIMを購入することをオススメしたい。
ーーーーーーー
次回記事からネパールの旅行記を書かせていただきます。
遅刻魔とBOSS呼称の始まり
運転手が「やらかす」定番として、遅刻。
経験上、遅刻をしないひとはしないけど、する人はかなりの確率で常習性がある。
遅刻は、本当にタチが悪い。しかも、タイミングを図ったかのように、遅れられない案件の時にこそ力を発揮してくる。
最初にくらった遅刻
最初に体験した遅刻は、赴任したばかりの休日のゴルフの日だった。
朝、駐車場の車の前にいるはずの運転手が、いない。
今でこそ「あー遅刻だなこりゃこねーわ」と思えてすぐに切り替えられるのだが、当時の私はまだ「信じる」事をやめていなかった。
待ち合わせ時間を15分、20分過ぎたところで初めて電話するが、出ない。
やばい、間に合わないと思い、同じアパートに住んでいた先輩の車に乗せてもらい事なきを得た。
運転手からの電話
ゴルフ場に向かう途中、運転手から電話が。
運転手「あsぇkら:;lk:あ;lskd:あ;lskdf:;あ」
↑赴任した当時なのでこう聞こえた。全くタイ語がわからない。
どうにもこうにも話が進まないことに業を煮やし、運転手が電話を切った。
数分後、日本語のできるタイ人スタッフから電話が。
スタッフ「彼は寝坊しました。今から行くと言っています」
私「もうゴルフ場に向かってるから今日は来なくていいと伝えて」
スタッフ「わかりました」
運転手からSMSが届いた
電話を切った数分後、SMSが届いた。運転手からだった。
先の記事の通り、運転手は英語もできない。SMSもタイ語で送られてきた。
そこで、Google翻訳を使って解読したところ、こんな訳が。
BOSSて・・・
これが、BOSSと呼ばれる始まりであった。
今まで運転手が何度となく変わってきたが、
「私の事をBOSSと呼ぶ運転手には問題児が多い」という統計を得た。
そのため、運転手が変わるごとにBOSSと呼ばれないかどうかが運試しとなっている。
ちなみに、このSMSを送ってきた運転手、翌日も無断欠勤。
そして、そのまま会うことは無かった。
変わりゆく運転手とのコミュニケーション奮闘記の始まりであった。
ちなみに今は少しタイ語が読めるのだけど、改めて読んだら
「申し訳ありません」じゃなくて「ごめん 」しか書いてねーわ。笑
歴代運転手の思い出 -序章-
運転手がつく暮らし
私は現在、タイに駐在するサラリーマンである。
タイを楽しみまくっているのは間違いないが、
一応「会社の命令で赴任した」というのが名目。
駐在員の恩恵として、私は運転手付きの営業車が支給されている。
理由は、
- 交通マナーが悪いので危険。
- 事故が起こった時に言葉も話せず不利になる。
- 看板が読めないから困る、など
これだけ言うと、非常に恵まれた環境にあるように見えるのだが、いや、実際に恵まれてはいるのだが、最大の問題が運転手自体にあったのは赴任するまで想像すらしていなかった。
とにかく今まで私に就いてくれた歴代運転手は個性的なキャラが多く、粒ぞろいなのだ。
なぜかというと、(以下、お気を悪くされる方がいたら申し訳有りません)、運転手という職業は学歴がなくてもできる仕事らしく、あまり常識を知らない人が多い。
常識を逸したファンタスティックな行動が頻繁に見られるのである。
今でこそ抗体が付き、自分で伏線を張ったり何か起こった際も冷静に対処したりできるようになったが、タイに赴任した当時の一番の困り事とストレスの原因は、運転手だった。理由は大きく分けて2つ。
1. 言葉が通じない
あたりまえのことであるが、言葉が通じない。運転手は、カタコトの英語すら話せないひとが多い。
容赦無い流暢なタイ語で話しかけてくる。
タイ赴任して直後はタイ語など話せるわけもなく、運転手に何も伝える事ができない。 たとえば
- ◯◯に行って
- ここで待ってて
- ◯◯に来て
などなど、言葉がわからずそういう指示すら出来ない。
なので、買い物に行くときも当初は駐車場まで一緒に乗って行き、「ここで待っててね」とジェスチャーで伝えて離れる。
所要時間を英語で言っても伝わらず、お互いに伝わらないことを笑って済ましてしまう。今思えば、大方の所要時間も伝えずに出て行くご主人に運転手も不安不満があっただろう。
フラつく時間はあるのか?
メシを食う時間はあるのか?
昼寝をする時間があるのか?
目安を作ってあげる事すらできず不満を募らせてしまったのは、ご主人である私の責任である。
2.地図が読めない
そして、運転手なのに地図が読めない。
運転手の仕事は運転することであって、それに付随する付加価値(道を覚える、渋滞情報を見て予測する、など)をつけようとする意識は無い人が多い。
それは運転手に伝えても理解しないし、それ相当の給与しかもらってないのも事実。
タイに住んでわかった事は、日本人は地図がよく読める。
というよりは、読めるようにならざるを得なかったのだと思う。
それだけ日本の道は複雑で、目的地に着くためには地図を読まないといけなかったのだと思う。
タイに限ったことでは無いと思うけど、タイの道は大通りの名前と小道の番号構成されている。
たとえば、「バンコク通りの小道番号1番」といった感じ。
つまり、名前の付いた大通りを乗り継いで、最後は指定されたソイの番号に入れば大方の位置に到着できる。
簡単な解説 おわかりいただけるだろうか |
日本の住所は番地で決まっていて小道には名前がないのだが、タイの住所は大通りの名前と小道の番号が重要視される。
そのため、通りの名前だけで覚えていることが多い。
地図のように全体の位置関係を把握できておらず、地図を見せてもちんぷんかんぷんで「この大通りの名前は何?」という質問がよく寄せられる。
そんな感じなので、方向感覚もなく地図をクルクル回している風景がよく見られる。
ある日気づいた
当時は上記のような運転手の言動1つ1つがストレスでしかなかったが、よくよく考えれば、そもそも外国人は私。
日本の物差しを使っている方がおかしいのである。
そう考えられるようになってからは、できるだけ受け入れるようにし、自分が変わることに努力した。
まずはタイ語の勉強。
そして、タイ人のライフスタイルの勉強。
その国のメンタリティを学ぶことの重要性は、かの島耕作も頻繁に謳っている。
思い出は美化されるとはよく言ったもので、今となっては様々なトラブルも楽しい思い出となっている。
もはや、ネタにしないとやりきれないエピソードばかりです。
チマチマ更新する予定です。
是非お付き合い下さいませ。
#私を構成する9枚
なんか面白そうなハッシュタグが流行っていたので、流行りに乗ったついでに思い出に浸ってみました。
わたくし、こういう自己満足を記録に残すの大好き。
構成している、というよりは、何かしらのキッカケになった着火剤という視点で選んでみました。
では、長いですが、もしよければ最後までお付き合い願います。
さんだる/たま
当時小5。
恐らく、自分の偏った音楽遍歴が始まった瞬間。
当時小学5年生で、中の良い友人がこのアルバムを持っていたことがキッカケ。
それまでとんねるずの歌とゲームのサントラしか聞いていなかったのだが、友人と一緒に聞きながら歌っていたところハマってしまい、毎日聞いていた記憶。
きっかけはそんなもんだけど、いま聴いても一切古いとは思わない。
たまはその後のリリース作品「ひるね」「きゃべつ」も名盤で、素晴らしいアコースティック集団だと思います。
バブル時代ならではのハイクオリティなマスタリングなのか、音質もかなりクリアー。
THE DAILY GRIND / NO USE FOR A NAME
当時中2。
メロコアにドハマリしたキッカケの1枚。
姉の部屋に忍び込んで、かっこよさそうなジャケットをくすねて聞いていたCDの1枚だった。
UNTIL ITS GONEのイントロで、X-JAPANみたいな曲が来ると思ってたら、TOSHIとは似ても似つかないTONYのヴォーカルで始まってずっこけた。
当アルバムのTONYの声は、晩秋のNUFANと違って音程が不安定だったし声が太かった。
でも、1曲1曲が異様に短くスピーディー、かつ曲間のギャップなし(当時のCDは曲間に2秒位のギャップが入っているのが普通だった)でノンストップで進む構成が、中2の私には衝撃的でのめり込んでいった。
レコーディングの知識などみじんもない当時は、「このアルバム、全曲通しで録音したんかな…」とか考えていた。
その当時、こういった洋楽は輸入盤しか存在しておらず、原宿のHMVまで買いに行っていた。
それが自分の初めての原宿でもあった。
カツアゲされると思って靴下に紙幣入れてました。
一番聴きこんだメロコアのバンドはBAD RELIGIONだが、キッカケを作ってくれたNO USE FOR A NAMEということで、彼らに敬意を。
ANGRY FIST / HI-STANDARD(輸入盤)
当時高2。
中2以降、スキャットマンやユーロビートに寄り道しつつ、洋楽のメロコアを漁っていた。
要は、こじらせて日本の曲を意識的に遠ざけていた。
で、たまに雑誌で見かけるイチオシ、HI-STANDARDというバンド。
試しに買ってみて洋楽かと思っていてジャケットを開いたら、3人のアジア人の写真
あれ?これって日本人じゃ…
名前を見て"Akihiro Nanba"日本人と確定。
うわー、このCD失敗したか…と思ってコンポに入れて、電撃が走った。
最初の曲は、Fighting Fists, Angry Soul(買ったのが輸入盤だったので)。
こんなかっこいいメロコアを日本人がやっている!
うわ、この人声かっこいい!
日本人やるじゃん!という上から目線。
それ以降、日本のアーティストにも目を向けるようになり、特にインディーズバンドにハマっていった。
ハイスタを始め、BRAHMAN、SUPER STUPID、THE MAD CAPSULE MARKETS、BACK DROP BOMB、COCOBAT、REACH、WRENCH、SOBUT、KEMURI、などなど。
クラスメート経由でインディーズマガジンの存在を知り、付録のCDを楽しみにしていた。
伝説の番組 HANG OUTは毎週チェック。
番組の懸賞にハガキを送り、見事「歯ぐきダッシュ」(現B-DASH)のデモテープに当選したこともある。
最初で最後の懸賞当選だと思う。
その後に発売されたハイスタの「MAKING THE ROAD」は間違いなく殿堂入り。
当時のインディーズバンドの音源は、感性豊かな時に知ったからか、今聴いてもカッコイイ。
AIRJAM2000での難波氏の「よっしゃ来い」を生で聞けて、本当によかったと今でも思う。
野音 Live on '94.6.18/19 / THE BLUE HEARTS
当時高3。
遅すぎるブルハの目覚め。
NUFAN以降、ずっとメロコアばっか漁っていた当時の私に早く気付けと教えてやりたい。
クラスメートにブルーハーツ好きがいて、彼には
「そんなメジャー聞いてないでハイスタ聞けよー」とか勧めていた。
友人に「まぁ、このアルバム聞いてみ」と言われて渡されたのがこのライブアルバム。
もう、聞いて最初からぶっ飛んだ。
こんなカッコいいバンドが日本のメジャーにいたんだ!と。
それからというもの、手のひらを返して彼らのビデオとCDを漁りに漁ってどっぷり浸った。
「ブルーハーツが聞こえない」というビデオは何度となく見た。
野音のライブアルバムは楽曲的にベスト盤とも言える構成で、最後につれて畳み掛けるセットリストが最高。
メドレーが終わった後の情熱の薔薇で鳥肌。
最後の曲TRAIN TRAINでヒロトが感極まり、「栄光…」でトチるところがもうたまらない。
解散する前に知りたかったバンドNo.1。
Live Everything Everything / Underworld
当時20歳。
クラブミュージックにハマったキッカケは、このCD。
今までメロコア・パンクばっかり聞いていた私にとって、この長く単調なビートの継続は最初意味がわからなかったが、DJの師匠が「このライブ、繋げてないのにかっけーよ」と騒いでいたから聞いた、というのが本音。
TRAIN SPOTTINGのラストに使われていたBORN SLIPPY NUXXがあったのであまり抵抗なく入れたのと、現場の楽しそうな空気が感じられるのが良かったのかもしれない
このアルバムを聞いて、Underworldへの興味が湧きエレクトラグライド2000への参戦を決意。
結果、自分と同行者の中で「エレグラ伝説」と唄うほどの思い出となる。
エレグラ伝説 詳細
エレグラ当日は、REVOLBER FLAVOURというインディーズの祭典とダブルヘッダーであった。
メンツは、BACK DROP BOMB、MASTER LOW IQ 1、SHAKKAZOMBIE、BRAHMAN。
私ともう1人の友人2人組はZEPP TOKYOで上記バンドのライブ観戦を終えた後、アドレナリンMAXの状態で幕張メッセへ向かった。
ちなみに、チケットはダフ屋で値切って買う予定だった。
幕張メッセの会場が埋まるほどのフェスなどないと、高をくくっていたのだ。
ところが予想は大きく外れ、海浜幕張駅に着いた私たちは愕然とした。
ダフ屋も困るほど海浜幕張駅前のチケットは枯渇していたのだった。
そこで友人と相談し、初めて改札口で「チケット譲って下さい」の人になる事を決意。
しかし全くもって保有者が捕まらず、終電もさしかかり、11月末の寒さも追い打ちをかけてくる。
すると、挫折しようとしていた我々の元に神が舞い降りた。
「チケット探してるの?1枚あるよ。あげる!」
…え、あげる? くれるの?
死にかけた私達にとって、それは神そのものだった。
他の人達はチケット保有者を見つけても値段をふっかけられている中、私たちのところに来て、チケットをタダで1枚渡してくれたのだ。
なんかちょっと奇抜な服装で、おそらく業界関係者だったのだと思う。だが、興奮のあまり身なりを覚えていない。
神に深々とお辞儀をし、見送る。
Underworldのライブ開始時間が迫っている。
残り1枚のチケットは、値段を気にしている余裕はない。時間優先。
しかも、1枚タダで手にしているのだから2倍までは出せる。
残り1枚はなんとか定価の倍でなんとかチケットを譲ってもらい、結果定価での入場に成功。
入場した時は、Orbitalがちょうど終わった頃だった。
直ぐにUnderworldが開始。間に合った。
始まりはCowgirlだった記憶。
あのピースな笑顔の空間、一体感の初体験は忘れられない。
オーディエンスは個人個人が好き好きに、笑顔で、時には手を挙げたりして、踊りまくっている。
いままではライブといえばモッシュ・殴り合いが普通だった価値観が、一気にぶっ壊れた。
なんか、大人だな、って思ったのと、単調なリズムで踊る楽しさをそこで学んだ。
当エレグラのライブではREZをやらなかったため、周りはライブセットを酷評していたが、クラブカルチャー自体が初心者の私は全てが衝撃のあまりにセットリストの記憶はあまりない。
その後のルークスレイターのDJがやたらバキバキしててかっこよかったことは、なんとなく覚えている。
この日をキッカケに、聴く音楽はクラブミュージックに大きく傾倒した。
そのキッカケを作ってくれたのが、このアルバムである。
今やUnderworldがフェスにラインアップされていても裏でやっているアーティストを優先してしまうくらいの存在になってしまったが、素晴らしいキッカケを作ってくれた彼らに感謝。
Anasthasia 2001 / YOJI BIOEHANIKA
当時20歳。
YOJI氏は、見せるDJもいるんだな、と思わせてくれた存在。
クラブで遊ぶ楽しさも教えてもらった。
エレグラ以降クラブミュージックを掘り続け、CISCO HOUSE Pt.2にてこのレコードに出会い、YOJIの存在を知る。
テクノやトランスとはまた違った暴力的なビートと派手な展開。ジュリアナの進化版というのが第一印象。
もともとジュリアナには幼少期なりに興味を持っていたので、まさにAnasthasiaをリメイクしたこの曲は"ど"ストライクだった。
このジャンルがNU-NRG(ニューエナジー)だと知ってからはニューエナの情報収集に注力するようになり、彼のMixの楽曲から掘り下げたレーベルやHELLHOUSEの音源は、必ずチェックしていた。主にCISCO HOUSE Pt.2とGRHOOVYに必ず立ち寄り、ハードハウスやNU-NRGのレコードを買いまくった。
CISCO HOUSE Pt.2に置いてあった「VIVA」のフライヤーで彼のレジデンスパーティーが有ることを知り、初めて新宿リキッドルームに足を踏み入れた。
隔月で行われていたVIVAには、しばらくの間皆勤した。
新宿リキッドルームのちょっと怪しい空間と、胸をどつかれているような低音を鳴らすサウンドシステムが大好きだった。ああいうクラブ、他にないよなぁ。
VIVAの客層は少し奇抜で、FETUSやUFOを着こなしルミカライトを持ち、チュッパチャップスを舐めている。中にはガンギマってる人もいて、被害を受けない程度に怖い。
「火ィかしてぇ〜」
と寄ってきたお姉さんが隣にくっついて座った時に、やたら肌が冷たくてこちらの肝も冷えた事を鮮明に覚えている。
「どこから来たの〜」とか
「誰と来たの〜」とか
どこか妖艶な声の質問に必要最低限の単語だけで回答することが精一杯だったのだが、あれは逆ナンだったのかも知れない。
と、思い出を美化。
VIVAの内容に戻ろう。
レジデンスDJ、SHOKO-Fのプレイは、黙々と暴力的なスピードテクノやテックハウスをかけ続けるスタイル。
彼がプレイしている楽曲は好きだったのだけど、レコ屋で音源が本当に見当たらなかったのが悔やまれる。
その後、NISHやLAB-4のゲストを経て登場するYOJIの神々しさ。
寸分狂わぬ曲繋ぎ、他人の曲を自分の曲かと思わせるオーバーアクション。
その当時のヒーローだった。こんなかっこいいDJがいるのかと。
VIVAの選曲と空気感が好きすぎて、このためにMDLP対応録再ウォークマンと小型マイクを買い、オープンからクローズまでエビアン1本でリキッドルームに入り浸り、毎回録音していた。
恐らく、あのリキッドルームの中で客単価が1番低かった人間だったと思う。
安物のマイクだから音質は聞けたものではなかったが、埼玉の奥地に帰るまでの道中で、さっきまでのクレイジーなムードを思い出すには十分だった。
フロアで気に入った曲のメロディをうろ覚えにしない事にも一役買ってくれ、レコードを買い逃す事も減った。
VIVAは大好きなパーティー空間でもあり、DJの勉強の場でもあった。
自分のDJに大きい身振り手振りがついたのは、間違いなく彼の影響である。
クラブとDJのことしか考えてなかったあの当時、楽しかったなぁ。
Mix-up vol.2 / Jeff Mills
当時20歳。
名作Mix-upシリーズの中でも、これは思い出の1枚。
このCDで、ミニマルテクノはMixで活きる音楽であることを知った。
もちろん、単調なビートが永遠と続く1曲をずっと聞くことに快感を覚えている人もいると思うが、自分にとってこのCDを聴いてからは、テクノ(特にミニマル)の曲はMixに使われるパーツ、という概念になった。
もともとUnderworldから入り、トランス、ハードハウス、ニューエナと聴いてきた自分にとって、テクノは少し地味で飽きてしまうジャンルとして分けられていた。
要は、上記ジャンルは1曲の中に起承転結があるが、テクノにはそれがなく、楽しみ方を見いだせずにいた。
(なら聞かなきゃいいじゃん、って話なんですが、要は色々きいてる人間がかっこいいと思っていたのでしょう)
それでもよく見るこのJeff Millsという名前と賞賛の数々。
ディスクユニオンで中古が安かったので、買ってみた的なノリだったと思う。
で、聴いてすぐにテクノの固定概念をひっくり返された。
彼のMixは当時の自分にとって斬新なもので、とにかくクイックミックス。BPMもやたら速い。
ターンテーブル3台を使って曲同士が重なっているうちに次の曲へ展開していく。
どこかのBlogでこのCDをレビューしていたフレーズを引用すると、
「矢継ぎ早にバキバキのハードミニマルを引きちぎっては叩きつける」
まさにこんな感じ。
荒々しく続いていくテクノの洪水に巻き込まれながら埋まっていく感覚。
このCDで、1つの数十分のMixが1つの曲になっている感覚を初めて掴んだ。
今ままでMixを「点のあつまり」でしか聞いていなかったのだが、「線」で聞けるようになった。
簡単に言うと、地味な曲をうまくつなげていくと、全体を通して聞いた時にすごく面白くなる、ということを知った。
Magneze / Surgeon
Changes of Life / Jeff Mills
上記の曲が始まる瞬間が当Mixのハイライトだと思っています。
この後、石野卓球氏のDJF400に出会い、もっと地味な方向へ向かっていくのであった。
Code4109 / DJ KRUSH
当時21歳。
新たなクラブミュージックの価値観。
今まではアッパーな音楽こそクラブミュージック、DJはビートつなげてなんぼと思っていたが、このMix CDで見解が広がった。
ダウンなビートとムードの繋ぎ。今思うと、なんとなくJAZZっぽい気がする。噛めば噛むほど味が出る。
このCDを聴くキッカケを作ってくれたのも、私のDJの師匠。
猛烈に勧められて試聴しないで買ったものの、買った当初は「なんだこりゃ」だったのだが、今となっては殿堂入り。
THA BLUE HERBやPREFUSE 73、RYOW ARAIなどアブストラクトなビートに興味を持つ入口となったのがこのMix CD。
今聞いたってカッコイイ。
むしろ、今聴いたほうがゾクゾクくる。
KRUSHさんサイコーっす。
ristorante / Nujabes (Mix Tape)
当時21歳。
恐らく、このテープは生涯「心のベストテン第一位」。
自分の今のDJスタイルの礎となっている1本。
縦横無尽なオールジャンルの45分×2本。
多岐にわたるジャンルを文句無しにオシャレにまとめている。かっこ良すぎる。
このミックステープから、色々なアーティストを知ることもできた最高の90分。
A面
Jazzyなビートから入ってアブストラクトを挟み、Bossaを通じてEpleで〆。
UNKLEのRemixからの展開がカッコよすぎる。
B面
BPM110くらいのブレイクビーツをつなげていって、途中でJamiroquaiのCanned Heart Remixを挟んで少し遊んだ後にハウス、優しいSambaでフェードアウト。
後味スッキリ。まさに、ristorante!
HYDE OUTがオシャレすぎて近づき難かったのだが、このテープはオシャレかつ渋く、しかも遊びが要所に組み込まれている。こんなMixをいつかは残したい。
私がMixを作るときは「あなたのロングセラーになりたい」がテーマです。
以上、自己満足でした。
自分的ロングセラーのCDを集めたらまた全く違う9枚になるんだろうけど、思い入れが強い方が書いてて楽しいのでこの構成にさせて頂きました。
ご清聴ありがとうございました。
ミャンマー旅行記 -通貨と通信事情-
タイに住んでなかったら間違いなく言ってなかったであろうミャンマー。
友人がバガンの遺跡群の写真をinstagramに上げていたのを見て「こりゃ行かないと」と想ったのがキッカケ。
結論から言うと、バガンの遺跡は本当に素晴らしかった。
ヤンゴンのシュエダゴンパゴダも素晴らしかったけど、バガンの方が好き。
もう一つの感想としては、今まででお金の持ち方が一番難しかった国ということ。
これは、自分があまり発展途上国に行っていないだけかもしれないが、かなり印象的だった。
これから行ってみたいという人もいるかもしれないので、
旅のインフラ的なものを記録しておこうと思う。
通貨
現地通貨
現地通貨は「Kyat(チャット)」。
レートは大体、1ドル=1000チャットと考えればOK。
外貨調達 -現金両替-
ミャンマーに渡航する前に、事前にUSドルを用意しておいたほうが良い。
というのは、日本円は、ミャンマーではメジャーではない。USドルかユーロが主流。
空港では日本円も両替可能。
しかし、ヤンゴン市内に行ってしまうと日本円では両替できないところもあり不便が生じる。
外貨調達 -ATMでのキャッシング-
クレジットカードによるATMでのキャッシングを勧めているサイトもあり試してみたが、我々はどういうわけかATMに拒否され続け、結局キャッシングできなかった。
また、引き出したい金額を任意に入力できない。
あらかじめATMで設定されたいくつかの金額から選択するのだが、最低キャッシング額が50,000チャットに設定されていた。少額のチャット入手には不向き。
いずれにせよ、日本円はメジャーではなく、キャッシングも機械任せになってしまうため、現金でピン札のUSドルを持っておくのが一番安全。
USドルを持つ際の注意点
ここで注意したいのが、USドルはピン札でないと受け取りを拒否される可能性が高いということ。
「そんなことないだろー」と思っていたが、折り目のついていただけの綺麗なドル札が本当に拒否された。しかも、かなり小綺麗なバーで。
こう書いてしまうとツッケンドンに返されてしまう印象だけど、そういうことではなく、
「すみません、折り目の付いてない札はないですか?」
的なやんわりとした拒否をされる。
場所によるのかもしれないが、ピン札がベター。財布にしまう際も注意しておきたい
USドルはそのまま使える?クレジットカードは?
USドルがそのまま使える店もある。
しかし、高級な店かオシャレな風貌の店、もしくはホテルに限られている。
数はあまり多くない。
また、クレジットカードが使える店も先述の店に限られる。
ローカルな場所を旅したいのであれば、クレジットカードはまず使えないと考えて良い。
カードを使いたい場合は事前にカード使用可否を確認しておく必要あり。
モバイル通信環境の確保
プリペイドSIMを購入
旅先でスマホをいじり倒すことはその場所の景色を見逃す機会が増えてしまうわけだが、Googleマップが使えるか使えないかで、旅の効率は大幅に変わる。
そのため通信手段を確保することに対しての優先度はとても高く設定している。
Pocket Wi-Fiのレンタルサービスを借りるのも手だし、事前に準備ができてラクなのだが、現地にプリペイドSIMがある国であれば、SIMを購入することにしている。
単純にスマホでダイレクトに通信できたほうがすぐに使えるし便利。
ポケットWi-Fiの電池も気にしなくて良い。
そうしているうちに、現地のプリペイドSIMを購入するのは一つの趣味と化した。
現地のSIMを使用すると購入方法や価格、通信速度などから、その国の通信事情を把握できる。
別に把握する必要はないのだけど、これは趣味。奥さんにも了解を頂き、購入の時間を割かせてもらっている。
幸い、去年からミャンマーもプリペイドSIMを取り扱っているとの嬉しい情報あり。
購入方法
到着ゲートを出て無数のタクシーの勧誘を抜けると、通信キャリアのブースが並んでいるので、見つけることはとても簡単。
事前Google調査の結果、3〜4社あるうち最も使い勝手の良いと書かれていたOoredooを購入。
プリペイドSIMの外箱。文字化けしているかのようなビルマ語が旅行感を高める |
意外だったのはNano SIMが売っていたこと。
発展途上国の場合、プリペイドSIMは売っていてもサイズがmicro SIMまでの場合が多く、SIMカッターを使ってサイズ調整する風景をよく見かける。
プリペイドSIMの取り扱い自体が新しいから、はじめからnano SIMの生産が行われていたのかもしれない。
価格は
- SIMカード代=1,000 kyat
- 500MB分のネットワーク用トップアップ=4,500 kyat
合計5,500 kyat だったと思う。
ドルかクレジットカードで買おうとしたら、「チャット現金払い専用だよ」と言われたため、現地通貨での現金必須。
モバイルネットを開通させる
SIMを購入した後、SMSによるアクティベートが必要。
ビルマ語は解読が非常に困難なため、店員に電話を渡してしまうのが良い。
iPhoneを手渡したところ、高速タイピングで手際よくサササッと手続きを終えてくれた。
その場でネット使用可否を確認(発展途上国はこれが重要)し、問題ないことを互いに整合。
店「今は+500MBのボーナス付きだよ」
俺「ってことは、1GB使えるんだよね?」
店「いや、500MB+500MBだよ」
というよくわからないやりとりを終えて、店を後にする。
結局、600円くらいで合計1GB使えることになった。
通信速度
速度テストの結果、ヤンゴン市内は安定して下り3Mbps、上り1Mbps弱。
ヤンゴン市内の通信テスト結果 |
発展途上国でこの速度はまずまずといったところだろう。
時々通信が途切れるけど、ストレスになるものではない。
使用可能エリア
ヤンゴンではどこでも問題なく使えたが、バガンでは屋外でもギリギリ使えるか使えないか、といったところ。
建物の中に入るとほぼNG。
Wi-Fiはあるか?
ヤンゴンは、中心地に行くとおしゃれな風貌のカフェもチラホラある。
オシャレな風貌のカフェには、フリーWi-Fiがあるとこも高い。
店員に「Wi-Fiあります?」と聞いてみると良い。
場所によると思うが、我々が使用できたWi-Fiはどれも激遅。
上り下りともに0.1Mbps以下くらいだったかな。
速度テストが立ち上がるかどうか、といった所。
「今月の支払いしてないからすごく遅くなってるんだ、ごめんね」
なんて店もあり、なんかホッコリ。
まぁ、そんな環境でもLINEのテキストのやりとり程度には不自由しない。
ということは、グループで旅行しても別行動ができる。
プリペイドSIMが無くとも、連絡をとりあう時間を決めてカフェを探し、互いに連絡を取れば良い。
連絡する時間が近づいたらカフェに入って暑さやスコールを凌ぎ、休憩がてらフリーWi-Fiを使ってLINEで連絡をとりあって待ち合わせ場所を決める、なんて使い方も可能。ヤンゴン中心地であればカフェは容易に見つかる。
外貨の取り扱いにだけ注意すれば、問題ない旅を満喫できる。